夜と霧

夜と霧 新版
いつかは読まねばなるまいと思いつつ、読んだら辛くなるに違いないと思っていた「夜と霧」…。別の本を探して歩き回っていたところ、ドンと平積みされているこの本の新版&旧版と目が合ってしまいました。ああ、今読めということかも…と思い購入しました。購入したのは新版です。
言わずと知れた名作なので説明もいらんかもしれませんが、一応さらっと書いておくと、第二次世界大戦中、アウシュビッツに強制収容されたユダヤ人心理学者の、収容所での過酷な生活を綴った記録です。
収容所の劣悪な環境や重労働、人を人とは思わない恐ろしい仕打ちの数々も描かれていますが、「ユダヤ人はこんな目にあってたんです。かわいそうでしょう?ナチスはひどい人間でしょう?」みたいなトーンで描かれることは一切なく、常に淡々と冷静に出来事が記されています*1。この本で伝えたかったことは、「かわいそう」でも「ひどい」でもなく、そういった理不尽な状況に置かれたときに、人の心はどう動いていくか・どうあるべきなのか、ということだからだと思われます。
過酷な日々を過ごしながら作者は、例え人として扱われないような環境に押し込められ、自分の意思がまったく存在しないような世界でも、自分の心までは征服できないということに気付いたとこからがハイライトです。

おおかたの被収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった。生きしのげられないのなら、この苦しみのすべてには意味がない、というわけだ。しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。すなわち、わたしたちを取り巻くこの全ての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生き凌ぐ事に意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。

人は虫けらのように扱われていると、虫けらのようにふるまうようになってしまうらしい。それを抜け出すたった1つの方法は、無暗に逃げ出すことや運命がここから連れ出してくれる「偶然」を夢想することではなく、今のこの状況を受け止め、自分がどうあるべきかを考え抜くことだ、という風に受け取りましたです。そして考え抜いて、彼が出した答えが

具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに、全宇宙たった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代りになって苦しみをとことん苦しむことはできないこの運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。

ということかな、と思いましたです。
こんなひどく理不尽で、自分に価値なんてないと思わせされるように状況に陥ってしまっても、「それでも人生にイエスと言う」ことはできる、という強いメッセージ感じました。どこかの神様が「生きることは正しいのだから、イエスと言いなさい」と言ってるのではなくて、過酷な経験をしてきた人から発せられる重く、沁みいる言葉です。読み終わった後、東日本大震災の被害者にも読んでる方が多くいると知って、納得しました。

*1:それが物事のひどさを強調させるときもあるのですが